粱恵王上 首章

孟子

孟子がはじめて梁の恵王にお目にかかった。

梁の恵王
梁の恵王

先生には千里もある道を厭わず、はるばるとお越し下さったからには、やはり我が国に利益を与えてくださるくださろうとのお考えでしょうな。

孟子
孟子

王様は、どうしてそう利益、利益とばかり口になさるのです。大事なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国に利益になるのか、太夫は太夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら自分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、誰もが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。
いったい、万乗の大国でその君を殺めるものがあれば、それは必ず千乗の領地をもらっている太夫であり、千乗の国でその君を殺めるものがあれば、それは必ず百乗の領地をもらっている大夫であります。万乗の国で千乗の領地をもらい、千乗の国で百乗の領地をもらうのは、決して少なくはない厚禄です。それなのに十分の一ぐらいでは満足せず、その君を殺めてまでも奪いとろうとするのは、仁義を無視して利益を第一に考えているからなのです。昔から仁に志すもので親をすてさったものは一人もないし、義をわきまえたもので主君をないがしろにしたものは一人もございません。だから王様、どうか、これからはただ仁義だけをおっしゃってください。どうして利益、利益とばかり口になさるのです。

講孟箚記

この書は、萩の野山獄に囚われた吉田松陰(1830‐1859)が,獄中の人々に孟子を講じた折に述べた感想や意見がもとになってできたものです。

松陰先生
松陰先生

恵王は、初めて孟子に会った時、第一に自分の国をいかにして富強にするかという問題を尋ねた。これから見て、王もまた、志ある人物であったと言わねばならない。しかるに孟子が、王のこの志をくじいたのは何ゆえであるか。

松陰先生
松陰先生

思うに、仁義は道理の上からなさねばならぬ当為の道であり、利は、それを実行した結果として期待すべき効果である。されば、道理を目標として実行すれば、効果が期待せずとも自然に至るものであり、効果ばかりを目標として実行すれば道理を失うに至ることが少なくない。その上、効果を目標として実行する時には、万事みな間に合わせ仕事となってしまって、完全に成し遂げることは少ないものである。よしんば少しばかり成し遂げることができたとしても、それを永久に守るということは保証しかねる。永久に維持することができるというよい方法を捨てて、目の前だけの手近な効果を狙うならば、その弊害は、言葉に言い表せぬほどである。それに反し、もしもよくひたすらに、かくせねばならぬという当然の道を求め、終始一貫、したりやめたりすることがなかったならば、事の成らざることを心配する必要はないのである。これこそ、諸葛孔明が言った「身を慎んで全力を尽くし、死ぬまで努力しよう。そしてその結果が成功するか失敗するか、よくゆくかよくゆかぬかの如きは、すべて天にまかせるものであって、わたくしが、今からあらかじめ考えるところではない」という意味なのである。

松陰先生
松陰先生

世間並の人情から言うならば、我々は現在、囚人の身であり、再び世に出て太陽を拝するという希望はもっていない。学問を究めあってそれが完成したとしても、何の役に立つであろうか云々。
このように考えるのが一般の考えであるが、これは、孟子のいう利の考えである。仁義という考えから見れば、そうではない。人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それは全て実行するのである。人として生まれながら、人の人たる道を知らず、臣として生まれながら、臣の臣たる道を知らず。子として生まれながら、子の子たる道を知らず。士として生まれながら、士の士たる道を知らぬということは、大いに恥ずかしいことである。もしこのことを恥ずかしく思う心があるならば、書物を読み、人たる道を学ぶより外に方法はないのである。そして、その努力によって、いくらかの道を知るようになったならば、それはわが心のうちに悦ばしいことである。孔子が「朝に道を聞けば。夕に死すとも可なり」といわれたのは、このことである。されば、その外に、実行の効果いかんを考えることなど、問題とするに足らぬのである。諸君がもし以上のことに志を立てるならば、初めて孟子を学ぶものと言うことができる。

松陰先生
松陰先生

いったい、近世になってより、学問教育は日々に盛んとなり、武士たるもの、書物を掖んで師を求め、学問に励まぬものはない。その風俗は美しいということができる。それに対し、わたくし共、獄に囚われているものが、何も言葉を挟むことはできない。だが、よくよく見ると、彼らが学問をする目的は、それによって名誉を得たい、官位を得たいということにすぎない。それならばその学問は、よい効果を得るということを目標とするものであって、ほとんど道理の当然を求め、これを実行しようとするものとは違っているのである。このことは深く考えねばならない問題である。ああ、世の中に学問する人物は多いが、真の学者がない理由は、学問をする初めにあたって、その志がすでに誤っているからである。精魂を傾けて政治にあたる藩主は多いのに、真の明君がない理由は、政治を執る当初において、その志がすでに誤っているからである。

JUN
JUN

いまの学校教育も進学をしてよい就職先・仕事を得ることが目的になっていますよね。
仕事を得るために勉強することも必要です。
しかし、それよりもっと学ばなければならないことは何なのか、自分自身に問うことが大切です。
あなたの志は何ですか。夢は何ですか。どんな人生にしたいですか。