「善意」はどこにあるか

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「善」を知っている人だけが、「善」を行為できる。
これは、驚くべき当たり前のことなのだが、多くの人がここを間違えるのは、「善」という何かが、抽象にせよ具体にせよ、なんらかの形で存在すると思っているからである。
しかし、そんなものは存在しない。
「善」は、決して「規範」という形では存在し得ないのだ。
なぜなら、もしそれが規範として、それに照らして自身が行為するべきなんらかの規範としてあるのなら、それは行為された途端に「偽善」でしかありえなくなる。
善そのものではなくて、善に似たものとしての、「偽善」でしかあり得なくなるからである。

では規範ではない「善そのもの」なるものを、いかにして知ることができるのかと問われれば、それは、個人で考えて知っていただくしかないとしか言えない。
なぜなら、こうこうだからこれが善であると、「言った」途端に、それは規範になってしまうからである。

『考える日々』池田晶子

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