「プロ」といえる人

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「食う」ということと、「覚悟」ということは、じつは完全に無関係なのである。
いや逆に食うことを無関係とするところにこそ、本来の覚悟はあるのである。
食える食えない関係ない、生きるか死ぬか知ったことか。
自分はどうしてもこれがしたい、これしかできない、だからこれをするのだ。

このような構えをこそ正当に「覚悟」と私は呼んでいる。
それで食えているのは、たまたまの結果、たまさかの僥倖である。
自分の仕事と心中する覚悟のないものに、どうして本物の仕事が可能だろう。
「食うこと」、すなわち他人や世間を横目に見ながらなされる仕事は、それがいかに巧みに工夫された技なのであれ、最初から堕落していると言っていい。

別の言い方をすれば、それは自分の仕事に対する尊敬である。
仕事は手段ではない、目的だ。
より良い仕事、よりよい作品のために、さらなる精進を重ねるその人は、自らの内面しか見ていない。
あるいは自らの内なる「神」を見ている。
仕事は神への捧げものなのだ。
自身の仕事に対する尊敬だけで、一生涯自己精進を続ける「職人」という種類の人々に、私は「プロフェッショナル」の本来を見る。
きょうびはほとんど絶滅している。

なるほど人は食わなければ生きてゆけないが、これをするのでなければ生きても意味がない。
そのような覚悟にのみ、その人の神は宿るのだという逆説を、あまりにも人は理解しない。
それで食っていることを持って「プロの誇り」だなど、片腹痛い。
正当な矜持がどこから来るか、説いたところで、それを知る者にしかわからない。

『人間自身 考えることに終わりなく』池田晶子

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