忍耐

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忍耐ということにはどういう意味があるかと申しますと、大体二つの方面があるかと思うのです。
すなわち一つには、感情を露骨に現わさないようにする、とくに怒りの情を表さないように努めるという方面と、今一つは、苦しみのために打ちひしがられないで。いかに永い歳月がかかろうとも、一たん立てた目的は、どうしても、これを実現せずんば已まぬという方面とです。

もちろんこの二つは、全然別物ではなくて、そこには深い関係がありましょう。
そこで普通には、この二つをいずれも「忍耐」という一つの言葉で表しているわけですが、しかし分ければ、以上のような二つの方面があると言えましょう。
そこで今この両面を区別して名付けるとすれば、前のを堪忍と言い、後ろの方を隠忍と呼んでもよいでしょう。
しかも、「忍」の一字に至っては、深く両者に共通しているわけです。

ではそのような忍とはそもそもいかなることかというに、結局それは己に打ち克つということでしょう。
とくにそれを工夫の上から言えば、怒りの情に打ち克つということです。
そもそもこの怒りの情というものは、諸君も知ってのように爆発性のものであり、したがってまたこれを激情とも呼ぶのです。
そこで怒りを抑えるには、この激情の爆発を抑えるだけの、強力な克己心が必要なわけです。

ところが、よほどの人でも、この怒りの情は抑えにくいものですが、それはこの怒りの情が爆発的なものだからでしょう。
同時にまたそれだけに、この怒りの情に克つ人は、心の広やかな人と言ってもよいでしょう。
すなわち怒りの情をわが心の内に溶かし込むだけの、深さと広さがなければ、できることではないからです。

次に隠忍とは、永く耐え忍ぶということです。
そこで隠忍には、持ちこたえるという特徴があるわけです。
ですからまた隠忍とは、じっと我慢しつづけることと言ってもよいでしょう。
とにかく隠忍というからには、必ずそこに時間というものが入ってくるわけです。
もちろん忍耐ということも、時間と関係がないわけではありません。
しかし隠忍ほどに、直接時間を予想するものではないのです。

そこで隠忍とは、いかに辛くとも投げ出さないで、じっと持ちつづけていくことを言うのです。
もうやり切れなくなったと思っても、さらにもう一息頑張るのです。
しかもその頑張りを、外に現わさないようにするわけです。
かくして、隠忍と頑張りとの間には、一脈の共通点があるとも言えますが、しかも両者は違うんです。
というのも頑張りとは、へたりこまないで努力を継続することであって、その頑張りが、人に見えようがどうあろうが、それは問題ではないのです。
ところが隠忍となると。我慢や頑張りが表面に現れないで、しかもそれが持続しなければならないのです。
すなわち外側からちょっと見ただけでは、何ら事なきが如くでありつつ、しかもその内面には。一貫した忍耐力が貫いているのでなくては、真の隠忍とは言えないのです。

ところで、このような忍耐の両面としての堪忍と隠忍とは、先にも申すように「忍」の一字、つまり自己に打ち克つ点においては、まったく同じです。
すなわちこの二つは、それが激情の際に現れるか、はたまた持続的な艱難に対して現れるかの差こそあれ、それが自己に打ち克ち、自らこらえようとする努力たる点においては、相通じるのです。
そこでまた、忍耐の実行上の工夫としては、つねに「ここだ!!ここだ!!」という意識がなければできることではないのです。つまり怒りの情を爆発させて、たとえば、弟妹などに対して怒りの言葉を、遠慮会釈もなく言い散らしておいて、後になってから「アッ、しまった」というのでは遠く遅いのです。
最初の一語が、うっかり飛び出したその刹那に、「そうそう!!ここだ!!ここだ!!」という、反省の閃きが現れるようでなければだめなんです。

(略)

ある一人のお弟子が、梅岩先生に「忍ということの極致はどういうものでしょうか」とお尋ねしたところ、梅岩先生答えて曰く「忍は忍なきに至ってよしとす」と言うておられます。
すなわち忍耐の理想は、「やれ我慢する」の「やれ忍耐する」のという意識がなくなって、それが何でもない、至極当たり前となるのが理想だと言われるわけです。

『修身教授録』森信三

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