名を惜しむ

この記事は約3分で読めます。

人を信頼できない人は、他でもない。その人自身が信頼できない人なのである。
自分自身が信頼できない人間であることを知っているから、その人は他人も信頼できないのである。
決して他人のせいではない。

自分を信頼できない人は、他人を信頼する仕方がわからないから、人をその職業や肩書で信頼しようとして裏切られ、しょせん人は信頼できないと思うに至る。
しかし、自分を信頼することが、なぜそれほど難しいことなのだろうか。

「名を惜しむ」という表現を、理解しない人がいる。
多いのだろうか。
「それはどういう意味ですか」
訊かれて当惑したことがある。
「名を惜しむ」と聞いて、ピンとこないような人生とは、どのような人生なのだろうか。
私にはうまく想像できない。

けれども、おそらく、現代日本に最も欠けているのが、この「名を惜しむ」という表現が言うところのものだろう。
汚職した官僚は。その職業を汚したのではなく、自分の名を汚したのだ。
教職者も警察官も「あるまじき」行為をしたのではなく、名を惜しまなかったのだ。
無名の会社員もまた然り、名がないからこそ「名を惜しむ」という表現を正確に理解できていいはずだ。

「いやしい」「あさましい」「みっともない」という真っ当な感覚が、なぜそんなに難しいことなのだろうか。
「いやしい」も「あさましい」も「みっともない」も、いかなる職業とも無関係に、その人の在り方そのものを指す。
「名を惜しむ」とは、いかなる職業、肩書であれ、そのような在り方を認めないプライドと言っていい。

けれども「プライド」、とこう言って、これがまたうまく理解されていないように思う。
サルだって、侮辱されれば怒るであろう。
誰も、自分が自分であることで、プライドを持っているように思っているのである。
しかし、自分の「何に」プライドを持っているのか、これが必ずしも明確でない。

せんだって、山一の倒産の騒ぎのとき、「山一マンのプライドをもって」と、一社員が語るのを聞いて、へえ、と思った。
会社なんかにプライドをもって、どうするのだろう。

むろん、もたないよりはもったほうが、健康にはいいだろうと思う。
しかし、会社なんかにプライドをもって、その会社がなくなったとき、どうするのだろう。
その人は、何によって立つのだろう。

「日本人としてのプライド」という言い方も、最近よく聞くけれど、これもちょっと違う。
「日本人」が偉くても、「その人」が偉いわけではないからである。
逆に、その人が自分にプライドをもてないから、「日本人」という名前にそのプライドを求めていることが多い。

職業とか会社とか国家とか、自分以外の名前をプライドにする人は、自分にプライドをもっていない。「いあやしい」「あさましい」「みっともない」行いをしながら、「私にだってプライドがある」とは、サルだって笑うであろう。

『考える日々』池田晶子

Views: 40

コメント

タイトルとURLをコピーしました