中江藤樹と熊沢蕃山・池田光政

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先生として仰ぐべき聖人を全国に求めんとして、一人の青年が岡山を旅立ちました。

青年は都のある東の方へと道を急いでまいりました。

近江の国に来て、一夜を田舎の宿で過ごしました。薄い間仕切りだけで分けられた隣の部屋には2人の旅人がいました。 2人とも明らかに最近知り合ったばかりに見えました。 2人の交わす会話に青年は惹きつけられました。ひとりの侍の方が次のような出来事を語っていました。

「主君の命で首府に上り、数百両の金を託されて帰る途中だった。肌身離さず金を所持していたのだが、この村に入った日のこと、日頃の習慣に反して、財布をその日の午後に雇った馬の鞍に結び付けておいた。宿に着き、鞍につけた大事なものを忘れたまま、馬子と一緒にその馬を返してしまった。しばらくして、初めて大変な忘れ物をしたことに気づいた。私がどれほど困ったか、おわかりいただけるであろう。馬子の名前は知らず、探し出すのは不可能だった。たとえ探し出せたとしても、その男が、すでに金を使い尽くしていたら、どうなろう。私の不注意は弁解の余地がない。主君に詫びて許される道はただひとつしかない。私は手紙を、一通は家老にあて他は親族にあててしたため、最期を迎える決意を固めたのである。

この言いようのない苦悩におちいったときのことである。真夜中遅くになって、だれか宿の都を激しく叩くものがあった。やがて、人夫の身なりをした男が、私に面会を求めていることを知らされた。その男を見るや、たいへん驚いた。男は、その日の午後、馬に私を乗せた馬子本人であったのだ。男はすぐさま言った。

「お侍さん、鞍に大事なものを忘れていませんでしたか。家に帰るなり見つけて、お返ししようと戻ってまいりました。これでございます。」

そういって馬子は私の前に財布を置いた。私は自分がどこにいるやらわからぬほどだった。嬉しさのあまり我を忘れた。しかし、我に返って告げた。

「あなたは私の命の恩人である。命の助かった代償として、この1/4の金を受け取られたい。命の親といってよい。」

しかし馬子は聞き入れなかった。

「私はさようなものを受け取る資格がございません。財布はあなたのものです。あなたが持ってらっしゃって当然なのです。」

馬子は、そう言って自分の前に置かれた金に触れようとしなかった。私はその男にぜひとも15両受け取らせようとした。しかし駄目だった。五両、二両、最後には一両を渡そうとしたが、無駄だった。ついに馬子は言った。「私は貧乏人です。このことで家から四里の道をやって来たので、わらじ代として四文だけ、お願いすることにしましょう。」

なんとかして私がその男に渡すことができた金は200文だった。男が喜んで立ち去ろうとするのを、私は引きとめて尋ねた。

「どうして、それほど無欲で正直で誠実なのか、どうか、そのわけを聞かせてほしい。このご時世に、これほどの正直者に出会うとは思いもよらなかった。」

貧しい男は答えた。

「私のところの小川村に、中江藤樹という人が住んでいまして、私どもにそういうことを教えてくださっているのです。先生は、利益を上げることだけが人生の目的ではない。それは、正直で、正しい道、人の道に従うことである、とおっしゃっいます。私ども村人一同、先生について、その教えに従って暮らしているだけでございます。」

この話を聞いていた青年は、はたと膝を打って叫びました。

「その人こそ、私が探し求めていた聖人だ。明日の朝に尋ねて、下男なり門弟なりにしていただこう。」

次の日、青年はただちに小川村に行き、聖人を訪ねて会いました。青年は来意を告げ、頭を低く下げ、弟子にしてくださるよう心から嘆願しました。藤樹先生は驚きました。ただの村の教師にしかすぎません。遠方から来た立派な人に頼まれるほどの人間ではありません。教師は、丁寧に若い侍の頼みを断りました。しかし侍は粘りました。いったん自分の師と決めた人のもとから、どうしても立ち去ろうとしませんでした。師の方も意思は固くありました。旅人は、大きな誤解をしているに違いない、自分は村の子たち以外の先生ではない、と思うからです。今や、粘り強さと、謙遜との張り合いでした。両者とも最後まで後へ引こうとはしませんでした。

どのように言っても、どんなに頼んでも、師の許しを得るのに何役立たないとわかると、侍は、ただ粘り通すだけでもって、聖人の謙遜に打ち克つのだと決意しました。そこで師の家の玄関のそばに外衣を拡げると、姿勢を正し、大小の両刀をかたわらに、膝を両手において座りました。日にさらされ、雨露に打たれ、道行く人々の噂にのぼっても坐りとおしました。夏であったから、この地は蚊にも苦しめられました。しかし、青年の目的ひとすじの心に変わりないように、どんなことがあっても、青年はきちんとした姿勢を崩さなかったのであります。三日三晩の間に、無言の願いは家の中にいる師のもとにも達しましたが、師からは一言の許しも引き出すことは叶いませんでした。

このときでした。藤樹にとっては全能の母親が、その青年のために仲介の役を果たしました。母親は考えました。これほど心を込めて願っているのに、自分の息子が受け入れずに放っておいてよいはずはない。その青年を弟子にとってよいのではなかろうか。息子にとってはそうした方が、断わるよりもよいであろうとみたのです。師も、この問題を考え直し始めました。母が正しいと思うなら正しいに違いない。こうして師はついに屈服し、侍はその弟子になりました。

これは熊沢蕃山の話です。蕃山は、のちに大藩岡山の財政および行政に携わる役人になります。その指揮のもとに、同地に今でも見られるほど、後世に影響を与える改革を数多く導入した人物でした。

それは岡山藩主(池田光政)の訪問があったことです。岡山藩の家臣となった蕃山が、自分の師の人格の偉大さを伝えたからです。そのような人の訪問は、厳格な身分差別のあった時代には、まったく異例の出来事でした。藤樹がまだ名もない存在であるのに対し、大名の方は全国でも大藩の一つの藩主でありました。これを思うと、その訪問は、訪問を受けた側ばかりでなく、訪問をした側も同じように、極めて名誉な謙遜を物語る出来事でした。

しかしながら。大藩の大名の予期に反し、師も村人も、そのような賓客を迎える用意の全然ないことを大名は知らされました。大勢のお供を従えた大名の行列が、師の住居の前に着いたとき、家では、師が数人の村の子たちに『孝経』を授けている姿が見られました。岡山藩主が、師に折り入って面会の希望を申し入れると、師は、講義が終わるまで、どうか玄関のところでお客に待っていただきたい、との返事を伝えました。大名は、これまで一度も、そのような異常な扱いを受けた経験がありません。しかし大名は、家来全員と共に、あたかも外では何事も変わったことがないかのようにして、家内の講義の進行中、その場で待ち受けました。

やがて賓客は、一般の人々と少しも変わらぬ態度で迎えられ、室内に通されました。藩主は自分の師とし相談役として、ぜひ任官して欲しいと頼みました。だが、師は、自分の使命は村にあり、母と共の暮らしにあると言って辞退しました。藩主が、この異例の訪問によって得た成果は、その名を師の門人の一人に加えることの許可を得たことと、師が長男を代わりに岡山に派遣するとの約束を得ただけでありました。教えを受けようとして訪れた貧しい青年に対してはあれほど謙遜を示した師でありましたが、威風堂々、訪ねた藩侯に対しては毅然とした態度で応じたのであります。たしかに師は、あまねく全国から、「近江聖人」として称され、相談に訪れるにふさわしい人物でした。藤樹は、全国の尊敬の的になり、他にも多くの大名たちが、それぞれ領内のことでわざわざ相談を求めて訪ねてまいりました。

『代表的日本人』内村鑑三

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