孟子は粱の恵王の跡を継いで、位につかれた襄王にお目にかかった。
御殿を退いてから、ある人に話された。
新しい王様は遠くから見ても、どうも王様らしさがさっぱりなく、近づいてお会いしても、またいっこうに威厳がない。
初対面の挨拶もそこそこにいきなり、 『この乱れた天下は、いったいどこに落ち着くのだろう』とお尋ねになる。
それで『いずれは必ず統一されて落ち着きましょう』とお答えすると、また『だれがいったい統一できるのだろう』と問われる。
そこで、『人を殺すことの嫌いな仁君であってこそ、はじめてよく統一できましょう』とお答えすると、『いったい、だれがそれに味方するのだろう』とまた聞かれる。
そこでまた、『だれかれといわず、天下に味方しないものは一人もありますまい。王様、あの苗をご存知でしょう。夏の七八月頃、日照りがつづくと苗は萎れて枯れそうになります。
しかし、このとき大空がにわかにかき曇り、ザアザアと勢いよくにわか雨を降らすと。苗はたちまちムックリと起き上がり元気づくことでしょう。そういうとき、だれがいったいこの苗の生き返るのを抑えとめることができましょう。
それと同じこと。仁政を行う君主に出会えば、それこそ人民は蘇生の思いがするものです。ところが、見渡すところ、天下に人を殺すことの嫌いな仁君は今日一人もおりません。もし、こんなときにそういう仁君があらわれたら、天下の人民はみな首を長くして慕い仰ぐことでしょう。
実際こうなったら、人民はみんなこの仁君に心服して、さながら水が勢いよく低いところへどんどん流れてゆくようについてくるものです。なんびとの力をもってしたとて、とても防ぎとめるものではありません』と私はお答えしたのである。
講孟箚記
粱の襄王の暗愚であることは、もちろん、論ずるに及ばない。 だが、王のとりわけ暗愚なることを知ることができるのは、いったいどの点にあるのか。
それは、王が孟子を見るや。 軽挙に「天下はどのような姿に落ち着くであろうか」と尋ねた、その一句にある。
この時、粱の国は四方から責められて困難を極めていたこと、すでに前の章に述べた通りである。しかるに襄王には、全くこの問題について心配し努力し励んでいる様子が見えない。
王が「天下はどのような姿に落ち着くであろうか」といっているのは、自分の国の運命を世間話に考えているものである。このような馬鹿者は、ともに天下国家の大事を語り合う価値がない。
思うに、ここにこの章を挙げてあるのは、孟子が粱を去った理由を示したものである。
いったい、有志の人物のことばというものは、自然、傑出したところがあるものである。自身の心身、自己の家・国という、切実に考えねばならぬ問題を、単なる世間話として扱う人間は、採るべき価値なきものである。このことこそ、人物を鑑別する秘訣である。
しかしながら、このことを人物を鑑別する秘訣であるとすることもまた、世間話の類である。
宜しく自身の切実な問題として反省すべきである。
『易経』に「辞(ことば)を修め誠を立つる」とあるが、このことこそ、君子たるものの学問のあり方である。
辞を修めるとは、一点も虚偽のない真実のことばを使うように努力すること、誠を立つるとは、誠実誠意を樹立すること。
人が話す言葉は、その人そのものを表します。
愚痴や悪口ばかり話す人は、そういう人です。
無駄口ばかり叩くひとは、そういう人です。
言葉は慎み、大切にしたいものですね。
「辞を修め誠を立つる」。大切にたいせつにしたいです。
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コメント
まず、管理人様と読者の方に3つのお詫びがございます。一つ目は母の介護などに思ったより時間とお金をとられ、寄付ができていないことです。申し訳ございません。二つ目は闘病生活の方が御気の毒すぎて応援コメントとすらままならないことです。他人様の事とは思えないのです。三つめはスピノザ全集の第2回配本があり、エティカの事実上草稿ともなったものでもともとはラテン語で書かれていた論文集が含まれていることもあり、それを拝読してからでないと責任のあることが申し上げられないと思ったことであります。以上を踏まえ今回は番外編を書かせていただきます。
第1 カール・ポパー先生に物申すープラトン、孟子、スピノザは悪いのか?ー
1 20世紀を代表する保守派の哲学者で科学哲学にも貢献した畏敬するカール・ポパー先生は今現在、岩波文庫で刊行が進んでいる「開かれた社会とその敵」の中でなんとプラトンを全体主義(共産主義とファシズム)の起源としております。また、スピノザのことも「果てしなき探求」の確か上巻で批判しています。彼のロジックで行けば、皇室就中天皇陛下を尊敬する吉田松陰先生や徳治主義をとく孟子も批判されるでしょう。ですがこれはおかしいと思います。権威者の発言でも鵜呑みにしてはいけません。
2 プラトンについて
私はプラントンの「国家」「政治家」をメインに書かせてただ来ます。たしかにポパー先生の言う様に、哲人政治の理想も問題はあるし、「政治家」(ポリティコス)では法の支配よりも優れた政治家の統治の方が良いとまで述べておりこれは危険だと思います。
ですが、では今のような世襲議員やいわゆるタレント議員が跋扈する人気投票的な民主制が良いのでしょうか?愚生は政治家はやはり学問をするべきだと存じます。
第2 孟子、スピノザ、吉田松陰について
1 孟子の徳治主義は、プラントンの哲人政治に似ているとことがあります。洋の東西で似たような思想が出でいるのは興味深いです。確かに日本の半可通の学者の中には、中国の統治は事実上は「法家」によりなされた。としたり顔で仰る方もおいでです。ですが、王朝交代(易姓革命)の場合には必ず「徳」のあるものが「天子」となり官僚機構のトップである「皇帝」をも兼ねるとされました。少なくとも新王朝の開基には「徳」が要求されました。
また、それが明代以降顕著になった皇帝の独裁を押さえた側面もあります(特に清王朝)
孟子はポパー先生と言えど簡単には批判できません。
2 スピノザについて
彼は噛めば噛むほど味わいが出る学者で、物凄く勉強をさせて頂いております。ポパー先生のご理解は僭越ながら、浅薄であると思います。だた。「限りなき探求」を高校時代に読んで以来、彼(ポパー)はカントのことは褒めているので、スピノザの後はカントに挑戦しようと思っております(カント全集の量は凄いですが。)。
3 吉田松陰先生について
確かに現在の視点から見れば、松陰先生の皇室崇拝は行き過ぎている面はあります。また韓国の学者からも批判されていますが、松陰先生は既に朝鮮半島植民地化案も(日本を防衛するために)検討しています。しかし、いかなる思想家と雖も時代の子なのですから、管理人様が適切に紹介されている今日でも光を放っている良い面を学べばよいと愚考いたします。
第3 終りに
今回は時間がなかったためもあり、覚書程度に終わってしまいました。岩波書店の(既に入荷しております。)次回配本読了しましたら、吉田松陰先生との共通点を中心に投稿させていただきます。
乱文や誤変換など、何卒平にご容赦ください。
第4 補論
カール・ポパー先生と同じく、ハンナ・アレンと先生も同様なのですが、あれほどそれぞれが違う①レーニン時代のソ連、②スターリン主義時代のソ連、③ドイツのナチズム、④国王もいたイタリアファシズム、⑤名目上は天皇陛下が絶対者であらせられたが、軍が権力を掌握していた日本の天皇制ファシズムを十羽ひとからげに、「全体主義」でひとまとめにしてよいのでしょうか?この点についても小生は疑問を抱きますが、時間が参りましたので今回はここまでとさせていただきます。失礼いたしました。
杉山 様
おはようございます。
お母様のお加減はいかがでしょうか。
お母様が少しでもお元気になられるように心よりお祈りいたします。
また、寄付のお心遣いたいへんうれしく思いますが、お気持ちだけで十分です。ありがとうございます。
心臓病のふうかちゃんの容態はあまり思わしくないようで、彼女のTwitter投稿を見ながら、心配しています。
彼女は死の恐怖と孤児であることの淋しさと闘いながらも、生きている喜びを動画で精一杯表そうとしているように思います。
彼女のことを考えると、自分の無力さをつくづく感じます。
さて、杉山様のコメントを拝読いたしまして、私も同感です。
リーダーは、人気者ではなくて、優れた人であるべきです。
したがって、リーダーは常に学ばなければならないと思います。
では、リーダーは何を学ぶのか。
それは、善く生きることです。
プラトン・ソクラテスも孔子や孟子も佐藤一斎も吉田松陰も皆、善く生きることを考え続けた人ではないでしょうか。
現代民主主義が人気取りに終わらず、真に優れた人がリーダーとなることを願います。
頭の中がまとまらなくて、短いコメントで申し訳ありません。
杉山様の次回のコメントを楽しみにしています。
これからもいろいろと学ばせてくださいね。
では、失礼いたします。