梁恵王上 第四章

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粱の恵王
粱の恵王

できることなら、ひとつ先生のお話をお聞きしたいものだが。

孟子
孟子

棍棒で人を殴り殺すのと刃物で斬り殺すのとでは何か違いがありましょうか。

粱の恵王
粱の恵王

いや、殺すことに違いはない。

孟子
孟子

それでは、刃物で人を斬り殺すのと政治が悪くて死に追いやるのとでは、なにか違いはありましょうか。

粱の恵王
粱の恵王

それも違いはない。

孟子
孟子

では、申しますが、いま王様の調理場には丸々としたうまそうな肉があり、お厩には肥えた元気な馬が飼われていますのに、一方人民はといえば、飢えて顔色が青ざめ、郊外には餓死者がころがっております。
これでは、獣どもをひきつれて人間を食わしているようなものです。
獣同士の共食いでさえ、やはり人は憎まずにはおられぬものです。
ましてや、人民の父母であるべきはずの王様が、獣どもをひきつれて人間を食わせているようなことでは、どうして人民の父母だなどといえましょう。
孔子は『最初に俑を造りだした人は、その子孫は必ず天罰を受けて断絶するだろう』と申しておりますが、それはあまりにも人間そっくりに造って、死者といっしょに埋葬したから、いかにも残酷なので、これほどにまで憎まれたのであります。
俑でさえもそうなのに、ましてや生きた尊いこの人民をみすみす餓死させるようなことでは、どうして許されましょうぞ。

(語句)
 俑 … 死者を葬るとき、殉死者のかわりに副葬する人形のことで、ヨウ 、または、ひとがたと読みます。

講孟箚記

松陰先生
松陰先生

「民の父母」という意味は、『書経』の康誥の篇に「上に立つものは、民をあたかも幼児を愛護するように保護教導すべきである」という語があるが、これに基づくものである。
『大学』にも「民の父母」という語が見える。
そして『孟子』に至って、ますますこの意義を力説している。
思うに父母が子に対する際、子を愛養する上にさらに教訓して、過ちなからしめようとする。
この苦労を惜しまないからこそ、父母と呼ばれることができるのである。
もしも養育はするが教訓しなかったり、教訓はするが養育しなかったりしたならば、父母としての道において、父母と呼ぶに値しないといわねばならない。
君主たるものの道もこれと同じである。

JUN
JUN

サッと読み終えないで、ここは立ち止まってみましょう。
子を愛養する上にさらに教訓してこそ、父母と呼ばれることができる。
知ってるよ、当たり前だよと思いますよね。
しかし、自分自身をよくよく考えてみましょう。
養育も教訓もしっかりとできていますか。
言うは易しですが、実際はとても大変ですね。身も心も多くのエネルギーを必要とします。
この苦労を惜しまないからこそ、父母と呼ばれることができる。
お父さんお母さんのその苦労が、未来をつくっている、未来を支えていると思います。
その苦労は尊いものです。
さあ、善く苦しみましょう。

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コメント

  1. 杉山憲一 より:

    時間が取れず、この時間になりましたこと管理人様に深くお詫び申し上げます。
    今回は二つテーマがございます。
    第1本編の主題に関係が深い子どもの貧困とヤングケアラー
     日本は明治政府とりわけ、佐賀の大木喬任が尽力したこともあり、識字率は驚異的に上がりました。ところが最近になって子どもの貧困が深刻な問題になっています。育ち盛りのこどもが三食きちんと食べられないのは問題です。まさに孟子の問題提起と重なります。さらに食べられてはいても近親者に重度の障碍者がいて、その介護に追われ、学校にも行けないというヤングケアラーの問題も出てきました。大学教授も含め教育関係者は危惧しているのですが世界最高であった日本の識字率が低下傾向にあるのです。これも由々しき事態です。孟子が王をたしなめ、吉田松陰先生が的確に注をしておいでのように、これは為政者の責任でしょう。ということは究極的には為政者を選挙で選んだ主権者たる我々の責任になります。
    第2 吉田松陰、モンテーニュ、スピノザ
     今ようやくエチカが読了まじかなのですが、ここにきて発見がございました、モンテーニュも含めて三賢人は今の言葉で申せば「ゼロベース」で突き詰めてものを考えました。
     1吉田松陰先生
     松陰先生は漢籍においては当時間違いなく日本最高の知識をお持ちでした。しかしそれに頼られることなく、獄中での孟子の輪読では敢えて朱熹(朱子)の註等の考えに拘らず、原意を踏まえようと努力なさいました。
     2 モンテーニュ
     彼も後年の英国の天才ジョン・ステュアート・ミルと同じく、いわゆるメンサとして生を享けた上に幼児から英才教育を受ける機会にも恵まれたため、当時においてギリシア語やラテン語の知識でだれにも負けませんでした。しかし彼は「私は何を知っているか」(Que scay-je)という良い意味での知的懐疑心と謙虚さを抱き続きました。あの時点で植民地支配や拷問の禁止を主張しており驚かされます。
     3 スピノザ
     最後になってしまいましたが、スピノザも当初はユダヤ教の指導者である「ラビ」になるための教育も受けましたし、彼自身聡明でもあったので、ヘブライ語だけでなくギリシア語ラテン語にも通じておりました。ところがエチカではユークリッドの言論を参考に、知識なしで数学的に神の存在を証明することに拘りました、知識である意味威圧的に相手を圧倒したくなかったのでしょう、必死に数学的に証明しようとしています。
     4 結語
     このように、東西の三賢人が博覧強記でありながら、それに頼らず、自分の頭でものを考えようとした事実から我々が学ぶべきことは多いと存じます。
     5 次回予告
     次回にはエチカを読了したいので、その感想と松陰先生や佐藤一斎先生をも拝読しておりますので、東西の知の対比なども愚生の乏しい能力の範囲内で行う予定でございます。
     今回もどうもありがとうございました。

  2. jun より:

    杉山 様
    素晴らしいコメントをありがとうございます。

    杉山様のおっしゃる通りだと私も思っています。
    教育こそが国の礎だと、教師を目指していた頃から思っておりました。
    しかし、現代は教育力の低下が顕著ですね。
    十分な学習環境を得ることができていないお子さんも増えているようです。
    貧困家庭の問題もありますし、家庭の教育力の低下もあります。
    親が親として育っていないと感じます。

    さらに、学校の教育力が低下しています。
    教師の能力の低下よりも教師を管理する管理職や行政の問題のように思います。
    事なかれ主義では、本物の教師は育ちません。
    本物の教師なくして、本物の教育はありえません。
    人を育てるのは、人です。指導者の情熱です。

    このような由々しき事態を招いていることは、おっしゃる通り、為政者に責任があります。
    票を得るための一時しのぎの対応ばかりでは、本質的には何も改善されません。
    しかし、為政者を責めても仕方ないですよね、選んだのは我々国民なのですから。

    国民一人ひとりが賢くならない限り、社会は善くなりません。
    私もその一人なので、もっと賢くなりたいと思います。そして、共に学ぶ人が一人でも増えてくれるように努力をしたいと思っています。

    勉強不足でお恥ずかしいのですが、モンテーニュとスピノザについての知識はありません。毎回、杉山様のコメントにうなずいているばかりですが、ご教授いただけることを嬉しく思っております。
    今後とも、よろしくお願いいたします。

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