人生のための教育

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「知る」とは、実際に役立ってのみ、知ることであり得る。
泳ぎ方を本で読んで知ってはいるが、実際には泳げないなら、泳ぎを知っているとは言えない。
同じく、各種の知識を知ってはいるが、それを人生に役立てることができないなら、それを知っているとは言えない。
ゆえに、人生のためと子供に教える人は、人生とは何なのかを知っていなければならない。
知らずに教えているなら、自分は知らないということを知らないのである。

じっさい、多くの大人は、子供よりも先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。
しかしこれはウソである。
彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。
生活の仕方、いかに生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。
そして生活を教えることが、人生を教えることだと間違えているのである。
しかし、「生活」と「人生」とはどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。
「何のために生活」するのと問われたら、どう答えるだろう。

こういう基本的なところで大間違いをしているから、小中学校で仕事体験をさせようといった愚にもつかない教育になる。
株を教えたり商売の真似事をさせたりしているらしいが、そんなことは社会に出れば、ほっといたって学ぶことだ。
生活に必要だからである。
しかし、生活の必要のない年齢の子供が、生活に必要なことを学ぶ必要がどこにある。
生活の必要のない年齢には、生活に必要のないことを学ぶ必要があるのだ。
それはこの年齢、このわずかな期間にのみ許された、きわめて貴重な時間なのだ。
生活に必要のないことは、人生に必要なことだ。
すなわち、人生とは何かを考えるための時間があるのは、この年代の特権なのである。

「人生とは何か」とは、そこにおいて生活が可能となるところの生存そのもの、これを問う問いである。
「生きている」、すなわち、「存在する」とは、どういうことなのか。

この問いの不思議に気がつけば、どの教科も、それを純粋に知ることの面白さがわかるはずだ。
国語においては言葉、算数においては数と図形、理科においては物質と生命、社会においては人倫、どれもこの存在と宇宙の不思議を知ろうとするものだと知るはずだ。
人間精神の普遍的な営みとして、自分と無縁なものはひとつもない。
どれも自分の人生の役に立つ学びだと知るはずなのだ。

生活のための教育は、人生のための教育ではない。
生活のための教育しか受けなかった人間は、生活のために生きることしかできない。
いかに生活するかは知っていても、生きるとは何なのかを知らない大人は、たんに先に生きているだけであって、何を知っているわけでもない。
このことを知っているから、私は子供に教えたりしない。
教えるのは、自分がいかに知らないか、これだけである。

『人間自身 考えることに終わりなく』池田晶子

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