本当に生きるということ(2)

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「本当にそう思う」ということと、「本当にそうである」ということとは、違うことだと覚えておこう。
だって、間違ったことだって、自分がそう思っているのだから、「本当にそう思う」と思えるわけだ。
でも、間違ったことを本当だと思ったって、間違ったことが本当になるわけじゃない。
本当にそうであることは、間違ったことじゃない。
やっぱりそれは「正しい」ことだということだ。

でも、本当に正しいことなんて、どうやってわかるのでしょうか。
それが自分が正しいと思っているだけではなくて、本当に正しいことだとどうしてわかるのでしょうか。

こんなふうに考えてみよう。
物の長さや大きさを計るために定規というものがある。
誰の持っている定規も目盛りは同じで、一センチは一センチと決まっている。
もしこれが、使うたびに目盛りが変わったり、各人の持ち物で目盛りが全部違っていたりしたら、定規は定規の用をなさない。
正しく測ることができないのだから、世の中の寸法は狂いっぱなしだし、建物ひとつ建ちやしない。
これと同じことだ。
自分が思っているのだから正しいと思っている人は、自分ひとりだけの定規、自分ひとりだけの目盛りを使って、すべてが正しく計れると思っているようなものだ。
各人がそういうてんでんばらばらな定規を持って、お互いを計り合い、それが自由だと主張し合っているようなものなんだ。
でも、正しく測ることのできないそんな定規を使って生きるなら、間違ってばかりのはずじゃないか。

しかし、人は「考える」、「自分が思う」とはどういうことかと「考える」ことによって、正しい定規を手に入れることができるんだ。
自分ひとりだけの正しい定規ではなくて、誰にとっても正しい定規、たったひとつの正しい定規だ。

そんな定規が本当にあるんでしょうかって、怪訝な顔をしているね。

あるんだ。
どこに?
君が、考えれば、必ずそれは見つかるんだ。
正しい定規はどこだろうってあれこれ探しまわっているうちは、それは見つからない。
考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。

『14歳からの哲学』池田晶子

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